こんにちは、noboruです。アラサーと呼ばれると若くなる年齢です。
本日、母に呼び出され、実家へ行ってまいりました。 母曰く「来週は君の誕生日だしお祝いをしよう」とのこと。 もっともその真意は「定期的に顔くらいみせんかバカ息子」ということなのでしょう。
さて、実家には2匹の猫がいます。 どちらも老猫、白い方は毛もバサバサになり、若かりし頃の凛々しい姿はどこへやら。
母曰く、最近はトイレの場所を間違えたりして、掃除をするのが大変なんだとか。 今日も用を足す様子を見ていましたが、昔と違う様相に愕然としました。
猫って、用を足した後の証拠を隠すんです。砂を掛けて、においを残さないように。 でも、うちの猫は、もうそれすらやらない。 母を「なーご、なーご」と呼んで、それを聞いた母が大急ぎで片付ける始末。
餌も食べに立ち上がったりしないので、皿にうつしたものをむりやり口元へ運んでやらないといけない。 もう猫の介護そのものです。
うちには、もう一匹、キジトラの猫がいます。
こいつも若干呆けてきているのか、いつもいる定位置の押し入れから出てくると、すぐ「ナーゴ、ナーゴ」と食料の催促ばかりしてきます。
どちらの猫も、元気だった姿を知っている。そして、老いていく姿は段階的にしか見ていない。普段から猫の世話をしている母の目と、たまにしか様子をみない僕の目では、大きく印象が違って見えました。
ペットを飼うとき、よく最初に「最期まで世話をする覚悟があるかどうか」が問題になります。 この言葉の印象として、ペットを幼少の間や飼ってすぐの間だけでなく、成長してからもちゃんと世話をすることが浮かびます。 しかし、今日、すっかり年老いた愛猫の姿を見て、これにはもっと深い意味があるのだなと気づかされました。
ペットを飼うには、最期まで、その家族が老いて弱り切り、この世を去るそのときまで、つきあう覚悟をしなくてはいけない。
当たり前のことだったのですが、これに今まで気づかなかったのは情けない。
おそらく実家の二匹は母の寵愛を受けて、やがて天寿を全うするでしょう。 そこはもう、母に任せるしかない。 でも、ぼくも、時々ではなく、少し頻度を上げて、猫の様子を見に行ってやろう、なんて思いました。 最近は無愛想で、僕の方を振り向きやしませんけれども。
さて、そんな猫を寵愛する母ですが、昨年、
新しいオカメインコの飼育をはじめました。
まあ、ペットの飼育がボケ防止になるといいですわね……。

- 作者: 井上緑,小方宗次
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