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毎日がひとりオフ

ネットの話題とITと音楽。

温故自新

自分を語る。
自分を知る。
はて、自分とはなんぞや。

自分にとってのブログ論をここ数日書き続けています。
Twitterでは主体が外、時事や外界の出来事を話題にすることが主でした。
それがブログを再び書き始めてから、また内へと戻ってきた。
外界からの刺激を自己の知覚に消化して、また外へとリリースする。
無から有を作ることは難しいですが、「無知」から「有知」を作ることはだれにでもできることです。
キーボード、いや、鉛筆さえあれば、内在する自分を具象化できる。
もっとも、そこにある自分の考えが、ほんとに意図した通り相手に伝わるかは不明ですが。

このブログ、はっきりしたテーマを決めずにやっています。
だからiPhoneの使い方みたいなことも書くし、こうやって自分語りやブログ論を唱えたりもする。
そんな混沌がこのブログのテーマ、と言えるかもしれません。

以前、こんなことを言われたことがあります。

「食事のとき、自分が食べたことないからって、人に“これおいしい?”なんて聴いちゃいけないよ。それはその食べ物や作った人、そしてなにより自分にたいして失礼だから」

そう、自分に対して、失礼なんです。
ドキリ、としました。
ものを口に入れる前に、もし「まずい」と言われてしまったら、その瞬間二度とそれを「口に入れる」という機会が失われてしまうかもしれない。
自分の舌にならば合うかもしれないのに。
相手にとってマズいだけかもしれないのに。
十人十色、言葉ではわかっていても、感覚として理解していない。

ある人はネギが嫌いだが、ぼくはネギが大好物だ。
ある人はモンブランが大好きだが、ぼくは普通だ。
社会にいるのは、自分か、自分以外の人間なのです。
そして、社会はたくさんの「自分+自分以外」で成り立っています。
「あなた」は「あなた」にとっての「自分」です。
ぼくは「あなた」にとっての「自分以外」です。
いかにして、他を受け入れるか、理解するか。
こうして文章にすると簡単だけど、実行するのは難しい。

自分と自分以外を成立させるには、自分を知るところからはじめないといけません。
例えば、好きな本。
なんていう本が好き?
どこでその本を知った?
どうしてその本が好き?
どんな気分のときにその本を読みたい?
どんな人にその本を読んでほしい?
その本を読んだらほかにどんな本が読みたくなる?
etc…
「好きな本」という幹を設定したら、そこから無数の枝葉が生えてくる。
どこを握ればいいか自分でも理解していないけれど、そこをがんばってつかみ、上へ行き、さらにたくさんの枝葉を見つけてゆく。
自分とはなんたるかを、自分という混沌の中から引っぱり出し、具現化する。
そんな「ほんとの自分探し」が、ぼくにとっての文章書き……なのでしょうか。

無知から有知を生み出すこと。
ぼくに取って、ブログを書くこと。
それは、漠然とした「自分」という存在を、他人から見える形に変質させる実験なのかと思います。