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毎日がひとりオフ

ネットの話題とITと音楽。

ブログを書く理由を、もう一度考えて見た

ブログという単語をぼくが認識したのは、あの9.11のころに報道された、一般ユーザーによる「ウェブログ」が情報源として認識されているというニュースでした。
まだその頃はブログという言葉が浸透していなかったのかな、ぼくも「ブログ」という単語ではなく、「ウェブのログ」という熟語としてその言葉を認知したのを覚えています。*1

ウェブは巨大なアーカイブである。
アーカイブ、すなわち書庫として価値を作ることに意味がある。
この考えは、ぼくがインターネットをはじめてから、ずっと考えていることです。
学生時代のぼくは今以上のバカでしたので、個人のくだらない情報など排除すべき、なんて極端なことを考えたりもしました。
いまとなっては、なんとおろかな考え方をしていたんだと思います。

無駄なことを書くのに、価値があるのかずっと不安でした。

「わかる奴にだけわかればいい」

「これは常識だから、いまさら書くのもアレ」

うん。それもいいけど、
わかりやすくして、あえて書いて発信する方が、もっと良いと思う。
その知識や発見、思ったことをもっと書いて、
ネットにどんどん情報を増やそう。

君の書いた一文が、他の誰かにとっての良いヒントになるかもしれない。

ブログを書くときの考え方7つ - ぼくはまちちゃん!(Hatena)

この記事は、ぼくがブログを書く命題にも通じています。
情報の価値は、情報を得た側の役にたってこそ生じるものです。

例えば、OLさんがカフェランチに出かけたとする。
そこのランチがおいしかったことを、日記代わりのブログに載せる。
ほかの誰かがそのブログを見て、そこのカフェに行こうとする。
カフェ側からするとお客さんの増加になる。

たあいのない情報が、何人かをほんの少し幸せにする。
そんな可能性が、インターネットにはまだあります。

「豚に真珠」とか「猫に小判」ということわざに類するものはたぶん世界中にあると思いますが、それが意味するのはまさにこのことです。「これには価値がある」と思う人が出現したときに価値もまた存在し始める。品物そのものに価値が内在するわけではありません。「私は贈り物の受け取り手である」と思った人間が「贈り物」と「贈り主」を遡及的に成立させるのです。

内田樹「街場のメディア論」より

街場のメディア論 (光文社新書)

街場のメディア論 (光文社新書)

ここで挙げられている「贈与と返礼」というモデルは、必ずしも意識的、能動的なものではないと捉えることができます。
ブログで見たランチが美味しかったから、自分もブログで紹介する。
誰かがそれを見て、「これは良い」と思った瞬間、価値が生まれる。
自分が見知らぬ人から得たブログの情報は、また誰かのためになるよう還元したい。
このアクションは、無意識のうちに行なっている「返礼」と捉えられるのではないでしょうか。

先日紹介した山田ズーニーさんは、まさに贈与を続けていくうちに、返礼として「今の自分」を得た人であります。

山田自身のことを言ってもですね、大学を卒業して、就職先がなくて、社会に入りあぐねていた第1回目の失業期も、それから38歳で会社を辞めて、社会に入りあぐねていた失業のときも、思えばコツコツ、コツコツ、コツコツと、私は文章を書いていたな、というふうに思うんですね。
就職先がなくてアルバイトのときにはですね、広告の短い文章を書く、という仕事を得ていました。短い文章を書く、というんですけれども地方に取材に行き、何回も納得するまで文章を書き直していました。
38歳で会社を辞めて、社会に入りそびれていたときには、インターネット上に無償で文章を書く、ということを思えば続けていました。
えー、文章を書くというのは私なりの方法なんですけれども、言い方を変えれば、自分を表現するということをずーっとずーっとずーっと続けていたということなんです。

(中略)

そういうふうにして、今出番はなくても、自分らしい、私はここにいる、私はここでがんばっている、っていうのを大きななにかチャンスとか、オーディションをくぐるというようなイベントではなくて、毎日コツコツ、コツコツ、コツコツとずーっと何年間か続けていって、私の場合も、5年でしたけれども、ずーっとある一定量続けたということがですね、自分に気づく一人の人がいて、「あら何かそれいいじゃないか」って言ってくれるまた二人目の人がいて、「なんならそれ、仕事でやってみない?」って言う人がいて、点が線になるように、それがネットワークを結んで、わたしは社会に出れた、という風に思っています。

山田ズーニーの「おとなの進路教室。」
Lesson 127 ラスト・レッスン 社会に自分の舟を出す より

Webに文章を公開するとき、そこに「見てくれる人」がいると信じて文章を書きます。
「絶対誰も見ない場所」に、外へ向けた文章を書くことはまずしません。
自分の文章を読んでくれる「ひとり」が、何かを感じ、糧としてくれると信じている。
それをつづけることで、ひとり、ひとりとそこに価値を見いだす人が現れて、そして今の「コミュニケーション・インストラクター」としての山田ズーニーさんを形作る結果になる。
書いてるその瞬間に、どんな価値が生まれるのかわかりません。
けれど、それを続けていくうちに、誰かの目にとまり、やがてそれが「自ら」として定着することになるのです。

ぼくにとって、こうやってブログを書くことが、社会に対する最大限の返礼であり、自分にできる貢献と思っています。
仕事やウクレレをするぼくもいる。
でも、自分のアイデンティティとは何か、自分という存在をどこにおきたいかを考えたとき。
それは、やはりぼくはこうして文章を書いていたいところにあります。

ここ最近、あらゆることに対するモチベーションがすごい落ちている。
自分でも、それには気づいているのです。
ただ、文章を書いたり、人に自分を知ってもらったりすることへの興味は、立ち止まりはしても、絶対なくしたくない。
それを失ったときは、それこそぼくが天満橋から身投げするときなのかな、なんて思っています。
それまでは、ただ書き続けていきたい。

あと。
ソーシャル疲れ、かもしれませんね。
TwitterFacebook、はてななんかで、他に向けた自分や、他に影響された自分ばかり意識して、すこし自我を見失っているような気持ちになっている。
他・多の中にある自分ではなく、ただの一人の自分を、もう一度確認したかった。
ぼくがぼくという「個」であることを再認識するためや、これまでググって解決してきたアレコレに対する返礼をするために、ぼくは表現しなければならない、そう感じたのが大きな理由です。
ぼくがぼくであることを、具体的な形として記すために。

最後に、マンガ「ブタのいどころ」より、以下の文章を引用してしめたいと思います。

シッタカブッタ「社会のよき一員になろうと努力しています」

ブッタ「それよりも、よき個人でいようとは思わんのかね?」

小泉吉弘*2「ブタのいどころ」より

ブタのいどころ

ブタのいどころ

*1:そのブログも、いつのまにやら「ブログというウェブサービス」という単語としてすっかり変貌してしまい。手打ちか自動か、なんて話ではなかったはずなのですが……。

*2:吉の上部は正しくは「土」ですが、文字がないため失礼ながらこの字で。